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第1章 剿焔のヴァンダフィリア
1章「Inflamarae(インフラマエ)」
――「其」はゴエティア68番目に記載される高位の魔王。神の法廷によって裁きを受け、天の遣いから堕天させられし者。
だが、煉獄に堕とされても、その燦々と煌めく六翼を捥がれても、彼は嘲笑いながら矮小な全ての者どもに警鐘を鳴らす。
最後の審判によってこの煉獄へ堕ちた者を裁くのは、「魔王」となった我が身である。
努々覚えておくと良い。貴様等の甘ったれた裁定という愚行は、何れ巡り廻って、吾輩が抱く総ての欲、衝動、願望を叶える機会を与えるだろう。
吾輩は「指輪」などというガラクタに支配されず、誰にも理解されず誰も理解せず、よって束縛や命令に応じる事も無い。其処に吾輩の求めるモノが無ければ、ただ気に食わぬ事象総てを灰と化すのみ。必ず、貴様等の喉笛を掻っ切る為の手段を手に入れ、あの日の恥辱を貴様等にも与えてやる。待っていろ、「神」気取りの無能どもよ!!
そして、いずれは――吾輩がこの世界を、公平たる甘美な世界として創造し直すのだ。
可憐で美しいヘリオトロープの花弁が熱を持ち、世界を覆い尽くす程に舞っている。全てを壊し尽くし、その色と温度で染め上げようと、我等脆弱な人間を次々と灼熱の塵へと変容させた。
つま先から髪の毛の一本までもが燃やし尽くされていく。呻き声や叫び声すら許されず、ただ人間は恐怖の表情のまま既に灰となり失っている足で逃げ惑い、一歩たりとも目線の先の地面を踏む事は無く死んでいった。
「嗚呼、これが正しく魔王による蹂躙であり、破滅をもたらす焔である……!!」
最期にその景色を見た詩人は、喉が焦土と化しても謳い、そう叫び続けるだろう。
この畏怖に駆られ狂気に溺れた思考を。かつて天の遣いであった神がもたらす目前の惨劇を。肉体を得てとうとう顕現してしまった……欲望のままに破壊と殺戮を楽しむ「魔王」のその美しき横顔を。
『足掻け!! もがき苦しめ、有象無象の虫けら共よ!! 貴様等には安寧など訪れない。貴様等が信じた“神”とやらに祈りを捧げ、そして吾輩の欲を満たす為に死んでいけ。其れこそが最も美しく、其れこそが吾輩が愛する最も人間らしい愚の骨頂なのだから!!』
魔王の声が高らかに響き渡る。其れは、一つの土地の終焉から始まる、最初の惨劇の一つに過ぎないのだと、後に我等人間は知る事となるのだ。
数時間前までは不変的な日常と子供たちの笑う声、司祭の優しき宣教、詩人の奏でる美しき竪琴の音色と歌声が街に満ちていた。その裏で、貧しき者は飢えを凌ぐ為に木くずをかじり、水でふやかした葉を無理矢理飲み込む。富んでいる者が絢爛で日々穏やかに生きている一方で、迫害されし立場の者に慈悲と言う情けなど与えられていなかった。
破壊され、灰となっていく美しかった街を安全な場所から眺めていた司祭は、地に膝を付き嘆く。神よ、何故救ってはくださらぬのか、と。
『当たり前だろう? 神などという愚昧な輩は貴様等人間を基準として正義や規則を掲げている訳では無いのだ。貴様等の……特に貴様の、おびただしい数の信徒を犠牲とし、自らは生き残ろうと逃げ出す魂胆は気に入った。正しく、奴等の最も憎むべきとされる自我(エゴ)では無いか!! っくく……フハハハハハハ!! 神を信仰し見返りに救いを求めるという事象だけでも傲慢だと言うのに、か弱き子羊を指導し導く立場の貴様が? 誰一人守らずたった一人逃げようと街を棄てた。愚かだ、実に愉快で堪らない。貴様は吾輩が直々に、この美しい焔の街並みを眺望させてやろうではないか』
魔王はいとも容易く司祭の首を掴み持ち上げると、高らかに嗤いながら燃え盛る街を恍惚げに見やった。
そして、自らに降り注ぐであろう災厄を想像し絶望する司祭にその名を告げる。
『我が名は魔王ベリアル。そのちっぽけな脳裏の貴様が見棄てた街と人間と共に焼き付けておけ。未来永劫、転生しようとその魂に恐怖と我が名を忘却できぬよう、烙印を施してやろう。準備は良いか? 我が審判を受ける心の準備は』
……復讐は、これから始まるのだ。今この時を以てして、吾輩は全ての願望と欲望を叶え、そして――「神」への復讐を。
2章「Nodus(ノドゥス) secundus(セクンドゥス)」
神よ。私は、欲望を殺し自我を棄て、貴方様の定めた規則に則り生きて来ました。
神よ。私は、出自の醜いさもしい人間です。それでも、ずっと信じていました。貴方様を崇拝し、善を積み重ねてゆけば、いずれ、街々の司祭様のように直接お言葉を頂戴し、拝謁する事が出来るのだろう、と。
神よ。私は、人間の生き様を美しいと思っております。健気に生き、貴方様を信じ、定められた人生を真っ直ぐに生きていく様子をこの世界で最も綺麗だと思うのです。時に、人間は醜悪な言動を取る事も、保身の為に他者を加虐する事もあるでしょう。それでも私は、信じたかったのです。
神よ。貴方様がいる限り、人間は必ず更生し世界は素晴らしき楽園となる。
……そう、信じていたかったのです。
公都から離れた樹海の奥に、その「教会」は存在している。
水源に困らず、物資や食料に困らず、争いも現在は条約により巻き込まれていない、そんな栄えた公都とは裏腹に、周辺の辺境の土地に点在している街とは呼べない村々では、天候による飢饉や流行り病による死者の増加が深刻な問題となっていた。
村々の人々は何度も公都に頼ったが、富める者は貧しき者を救わず。貴族の代理として村の人々に「神のお告げ」を伝えた司祭は穏やかな表情で、流行り病を持ち込まないよう彼等を門の外へと追い出す。
子供が熱を出して泣いていた。体力の無い老齢の人々は苦しみながら死を迎え、介助する若者は仕事にも手が付けられず徐々に疲弊し諦めていく。どれだけ神に祈ったところで状況は何も変わらなかった。
……そんな滅びを辿るであろう名も無き村に、ある日、一人の女が現れたのだ。
女は、熱を出し泣き喚いていた子供を聖母のように抱きかかえ、あやしながら持っていた「何か」を飲ませる。死に往く老齢の人々には、苦痛を和らげる為に透き通った声で、神の御許に逝けるよう鎮魂歌(レクイエム)を歌った。疲弊しきった若者には休息を与え、自身が代わりに献身的に介助を申し出る。
混乱していた村は、女が村を訪れてから目に見えて状況が改善し、村民は彼女を「聖女」と呼んで、感謝の意を伝え手厚くもてなす。だが、彼女はそのもてなしを断り、慈しみのある優しき声で言葉を紡いだ。
「私は、ジェーン・ドゥの女。名を棄て、神の創る美しき楽園の為に生きているだけの身分も何も無い女です。礼を言われるような事はしておりませんし、私が信仰せし神もこのような事態はお望みにならない筈。そう思い、行動していただけですので。こちらのお食事は、病に伏せっている方や疲弊している方にお配り下さい」
女はそう言い、痛みにより再び泣き始めた子供や赤子をあやしにその場を立つ。
たった一週間だ。何もしてくれなかった公都とは違い、女が村を訪れてから一週間で、人々は再度活気を取り戻し、流行り病だと思っていた病もただの栄養失調であった事が判明した。女の指示を貰いながらも、村民は自らの力で、滅びの一途を辿る筈だった人生の岐路を変容させたのだ。
女はその状況に安堵し、皆が自身に何度も礼を言い笑い掛けてくれる姿を見て、やはり神は間違ってなどおらず、人間は強く美しい秩序正しき生物である、と再認識する。
村が落ち着きを取り戻した頃、女は再び巡礼の旅へ出ようとしたが、村民の願いとはからいにより、森奥の今は亡きシスターが住んでいた教会を居住場所として暮らす事になった。
元来、女は「人助けをし善を積む事で死後神の御許でお傍仕えが出来る」と考えていた為、この村で今後もそういった善意による活動を行っても良い、というのは願ったり叶ったりである。巡礼の旅は険しく、他者を救おうとして救えなかった事などいくらでもあった。だが、こうして住む場所を与えられたのならば、神に祈りを捧げる時間も、人間の美しい営みを記憶する事も、自身の持つ知識や技術で人々を救う事もより容易になるだろう、と考えたのだ。
女はその提案を受け入れ、村民と共にその教会で暮らしていく事となった。
朝の陽射しが古びた固いベッドへと差し込み、私は目を覚ました。雨風が凌げるだけでも十分すぎるくらい、ここは立派な建物だ。何より、神を象った小さなステンドグラスのある礼拝堂が私の一番のお気に入りだった。上体を起こし、窓を開け小鳥のさえずりと爽やかな風を頬に浴びながら、礼拝堂で祈りの言葉を口にする。
そうして、私の一日は始まるのだ。
近くの村の皆様の厚意でこの場所に住む事を許可されてから丁度一年程経っただろうか。村民はジェーン・ドゥ(名無し)の私の事を「聖女(マリア)」と呼んでいる。そんな大層な名で呼ばなくても良いと何度も断ったのに、あの時の礼だと思って、と言われてしまえばそれ以上断るのは逆に失礼だろう。
でも、私も人間だからこそ、頼られ、期待され、希望や好意の眼差しを向けられ「聖女」と呼ばれるのはとても心地が良かった。まるで、私が生きてきた人生が、ようやく神に認められ始めたような……そんな気がしたのだ。
この教会には様々な人間が訪れた。
勿論、かつて自然災害で朽ち掛けていたとは思えない程、今は立派に交易路の中継地点として大きく成長した村の子供達が遊びに来る日もある。私は、かつて自分を拾い、育ててくれたお婆様に恥じぬよう、薬の知識や病の知識、土地や天候の知恵、人々の心を癒す術などを用いて、少しでも教会に訪れた人が笑顔で帰っていく為に尽力していた。
最初は村の子供たちや、体調不良に陥った老齢の村民、精神的に不安を抱えた若者の村民たちの為に生きていたが、どこからか噂が広まったのか、別の村から訪れる者、旅の道中に祈りを捧げていく者など様々な人と出逢うようになっていた。
人生とは不思議なもので、私には一切無縁だと思っていた恋慕の告白をされていく方もいて、勿論断りこそしたが、一人で生きていた頃よりずっとずっと世界に鮮やかな彩りが増えたように思える。
――気付けば、私は「聖女」と呼ばれる事に何の違和感も抱かなくなり、閉鎖された教会の中で訪れる人々の為に生きる事が目的となっていた。
早朝、礼拝堂で私は神に告解する。ある朝目覚めた時に、自分はこれで正しいのか、と悩み、己の出生を、ここまでの旅路の中で抱いて来た様々な感情を「罪」かも知れないと捉えてしまったからだ。
「……神よ、私は罪を告白します。私は――魔女と呼ばれていたお婆様から受け継いだ知識や術で人々を救いたいと尽力しておりました。人々は私が穢れた出生であり、亡き者として名を奪われた事など一切存じません。疑う事すらせず、ジェーン・ドゥである私を聖女と呼んで慕ってくれております。私は、それがとても嬉しく、叶うのならばこの村で、この場所で彼等の幸福を見届け、貴方様の御許に逝く事が出来れば……そう思っておりました。ですが――」
私は一度、神が描かれたステンドグラスに向けて祈っていた手を心臓にあて、俯きながら小さく続きを囁いた。毅然として告解が出来ないのは、身に覚えがあるからだ。それを「罪」だと自覚してしまっているからだ。
「ですが、私は神の子羊たる信徒でありながら、傷を負い、手当てをした騎士の男性と……私に愛と言う感情を教えてくれたその者と肉体を交わらせてしまいました。これは赦されざる行為であると、規則では理解しております。それでも、求めてしまったのです。優しき人々に囲まれ、謙虚さを忘却してしまっていたのでしょう。人の肌があたたかいこと。愛されるのが――こんなにも嬉しく、今生きている事実を実感させてくれるということ。貴方様に告解する資格すら無い女であるのは重々承知しております。ですがどうか、どうかお赦しを……私を、魔女では無く聖女として扱ってくれる人々の為に」
貴族と顔が取り柄の娼婦の間に産まれてしまった忌み子であり、追放され棄てられても尚お婆様の善意で生き延びてしまい、そのお婆様ですら幼子であった私の「言葉」一つで死に追いやってしまった。
神よ、私は罪人です。それでも人間の事を愛しています。救いたいと思っています。私を棄てた者にも理由があったのでしょう。綺麗な心も、穢れた心も、どちらも「人間」として在るべき姿だと私は巡礼の途中で、そして今現在そう強く思っているのです。
私は、必死に答えなど何も教えてくれないステンドグラスの前で声を上げた。どこかにこの感情を吐き出したかったのである。「聖女」である以前に「罪人」であるという後ろめたさ、そんな事実を誰にも言えずにのうのうと生きている事への罪悪感。
赦されたい。呪われた出生も、過去の罪も、一夜の過ちも……この幸福に彩られた世界に、赤黒いインクを落とす忌々しい感情へと変化していたのだ。私も、愚かな人間の一人だった。
だから、私はそのひとりぼっちの告解を、誰かが覗き聞いているなんて、考えもしなかったのである。村の人間は全て善人だと信じていた。訪れる人間も良い方ばかりで、愛を教えてくれ告白までしてくれた方も、巡礼と言ってここで祈りを捧げていく方も、他の土地の賑やかな伝承を謳って聞かせてくれた詩人の方も。
私は誰も疑わなかった。疑いたくなかった。これ以上の幸せを望む浅はかな女に成り下がっていたのか、それとも……こうなる「運命」だったのか。
今となっては、知る由もない。――知ろうとも思わないだろう。
その違和感は、私が満月の光と共に寝台へと身体を沈め、瞼を閉じた時に気が付いた。気が付いてしまった。
教会の礼拝堂の横、私が普段勉学に励む時や怪我人の治療をする時に使っている部屋に誰かが入り込んでいる。だが、私はそれを「飢えに苦しむ物盗り」だと信じ込んだ。人間の善性を信じ切り、自身の醜い部分を認める為に他者を赦し続けていた心で、今更他者だけ疑うことなど出来はしなかったのだ。
……次第に、教会へ足を運ぶ者が少なくなっていった。違和感を覚えながらも、私はそれでも信じ続けてしまったのである。嗚呼、思い出すだけでも忌々しい。どこまでも浅はかで、さもしい女は私自身だったのだ。今なら理解出来る。でも、この時の私は何も知らない“フリ”をして、聖女ごっこを楽しんでいた。
――そして、とうとうその日は訪れる。
冬の朝の出来事だ。忘れることも出来やしない。
冷たい静寂の中、一本の火矢が小鳥のさえずりを遮って、教会の庭で育てていた白百合に突き刺さった。
パチパチと何かが燃える音に私は直ぐに気が付いて、急いで火元を消さねばと、何も考えず無垢なまま教会の外……地獄へと通じている門を開いてしまう。
「……どう、して」
私はそれしか言葉に出来なかった。教会の門扉を開くと、外には沢山の兵隊が教会を取り囲んでいた。掲げている旗に描かれている紋様は、公都と休戦条約を結んでいる聖都……つまり、私と同じ「神」を信仰している大きな都だ。中央に立っている人物は、絢爛な装いを見るに聖都の人間では無く貴族だろう。
そして、その旗を持って私に槍を向けている貴方は……あの日、隊とはぐれて遭難し、怪我をしてしまったと言って教会を訪れた騎士様。そう、私に「愛」を教えてくれ、傷が治り教会を出る頃“未来”を共に過ごさないか、と告白して下さった人。
全ての点と点が繋がる。
あの人が、隊長と連絡を取ると言って何度も手紙を書いて鳩を飛ばしていた事。私が村を訪れてから、つい最近まで持病の関係で長くお世話をしていた老齢の女性が亡くなる間際に囁いた「気を付けなさい」という言葉。教会に行かないように両親に教えられた、と話してくれた子供達。いつも生活必需品を届けてくれていた若い商人は次第に教会に足を運ばなくなり、自ら村へ赴き買いに行く時に知った“商人の若者は大きな報酬を貰って公都で商会を構えた”という村の人々の会話。告解の時に覗き聞いていた人影。深夜に私の部屋に物盗りが入った事件。
全部、全部、全部……繋がってしまった。
私は、人々に売られたのだ。公都の交易路の中継地点として栄えた、かつて見棄てた村が復興したのを境に、誰かの一言で手のひらを返したのだろう。聖都が絶対的に「神」を信仰し、それ以外の「何か」を信仰する土地を異教徒として滅ぼしているのを私は知っている。何故なら、彼等の所為で、私の言葉一つの所為で、私の命を救ってくれたお婆様は私を逃がし「魔女」として処刑されたのだから。
あの国と争わない為に、私が「聖女」と呼ばれているのが邪魔になったのか。
私は、ただ富める者が棄てた者が幸せになればいいと、未来がもっと長く続きますようにと、……私も共に彼等と生きて、彩り豊かな美しい人生を歩めたら、と。
ただ、それだけだったのに。
それだけの願いですら……「神」は赦してはくれなかったというのですか?
「私が他の人間を陥れるような真似をしたでしょうか!? 私はただ、普遍な生活を営み、死後神の御許へと逝く事が赦されるのならば、と願っていただけです!! 貴方達は、そんな私の些細な幸せですら、また奪うというのですか!?」
何故、そんな惨い事が出来るのでしょう。
その言葉は、私を抱き、優しく甘い言葉を嘯いた男の槍によって腹を貫かれた痛みで、無理矢理掻き消される。
この時代での「魔女」は、「神」にとって最大の敵とされた。何故なら「神」の定めた約定の中には裏切り者の天使の名が書かれており、その天使は人の業を愛し肯定した事で堕天させられ煉獄の王となり、復讐の機会を伺う為に人間を操っているからだ……その解釈が世間に広まっているからである。
堕天させられた天使の名は、サタナエル。煉獄の王……魔王と呼ばれている今はベリアルと呼ばれている。其は紫紺の焔を操り、魔術の知識にも長けていると翻訳されていた。
……私は「魔女」では無い。だが、この惨状はどうだ? まるで、「魔女」としてお婆様が殺された時と同じでは無いか。
噴き出す緋色の雨が何なのか、さかさまの空が見える酸欠の脳ではどんな液体か理解出来ない。熱いと感じた感触も、叫んでいた筈の声も、ごうごうと燃える不快な音も、何もかも「無」へと帰した。
私は、死ぬ。私利私欲の為に私を利用し続け、「神」の為と言えばなんでもまかり通ると思っている奴等に嵌められて、偽りの信仰を掲げる者共によって、終焉を迎えさせられるのだ。
嗚呼、どうか、誰でも良い。私の言葉を聞いて。私の感情を、私の嘆きを――私の「愛していた世界」を返してッ!!
その慟哭と共に、死に逝く私の脳裏に「神」の声が聞こえて来た。それは、まさしく「神の審判」であった。
『お前自身が気付いている筈だ。我々は人間に“個”を求めてはいない。自我があるからこそ、このような悲劇や争いが繰り返される。だからこそ、今、怨嗟と言う強い感情を抱いているお前はただの罪人である。我々の欲しているものとはかけ離れた異端だ。煉獄の業火に再び身を焼かれ、己の罪と向き合うが良い』
「神」はいつだって正しく慈悲深い。そう思って私は生きて来た。だからこそ、いつか赦される筈だと信じて、人々を救って来た。でも、その行為ですら自我(エゴ)で、産まれた瞬間から私は「神」にとって不要な有象無象の存在だったのだ。
なら、私は、どうして産まれて来たの?
答えの無い問いを投げ掛けて、私は地の底へと堕ち、煉獄の炎で魂までもが焼かれていく。
――だが、棄てる「神」が居れば、拾う「神」もまた存在するのだ。
私の問いと慟哭に、誰かが答えを囁いて来た。
『……女。憎いだろう? 貴様を貶めた矮小な人間共が。貴様の信じ続けてきた神とやらの慈悲の無い断罪が、恨めしいだろう。産まれ落ちた瞬間から貴様はこうなる運命だったのだ。神は謳う。人間は何故争うのか。其れは感情があるからだ、と。だが、一体神が人間に何を施してくれた? 神は常に見ているだけ。失敗作だと宣いながら、その存在を放置し蔓延らせている。貴様のような善良な人間が殺される世界を、ただ黙って見過ごしている』
低く甘美な男の声だった。不思議と痛みも熱も和らいでいき、気付けば辛うじて声を出せるようになっている。一体、彼は誰? 何者なの? その問いを遮るように、男は矢継ぎ早に言葉の先を紡ぐ。
『吾輩と契約をしろ、女。生憎吾輩も神とやらには貴様と同じかそれ以上の怨嗟がある。あのいけ好かない喉元に爪を立て掻っ切り、全てを貪り滅ぼしたいと。理解出来るだろう? 裏切られたのだ、報復はせねばなるまい。この腐り切った世界を放置する神に復讐するには何が最も有効な手段か。神の駒である貴様を貶めた有象無象の人間共を一度滅ぼせばよいのだ。神の統治無き“人間が人間の裁きで生き方を決められる世界”。神などと云う存在がいるからこそ、人間はそれを正義だと掲げて過ちを起こし繰り返す。そうだろう? 自我があるから争いが起きるのでは無い。神の存在が、争いを引き起こしているのだ。吾輩はそれを神に助言し追放された。そう、否定され棄てられたのだ、貴様と同じようにな』
だから、その肉体を吾輩に寄越せ。代わりに貴様の最期の願望も叶えてやろう。
問いに答えてくれたのは、かつて天界を追放されたとされる天使サタニエル……否、魔王ベリアル。そう、私はそんな存在に「願望」を聞いて貰えるというのか。
一瞬差し伸ばされた手を無意識に掴みそうになるが、私はふと“かつて本当に善性を持っていたであろう人たち”を思い出し、思わず彼の手を払いのけてしまう。
『いい度胸だ、女。あそこまで裏切られ、貶められ、穢されて尚高潔さを保ちたいというのか。クク、ならば吾輩の視界から視せてやろう。今貴様がどんな惨たらしい目に遭っているのかをな』
ベリアルはそう言い、私の額を指のようなもので小突いた。
――刹那、視界がまるで空から俯瞰して世界を見ているような、先程まで霞んでいたとは思えない程明瞭な景色へと変貌する。
だが、視えてしまった……視させられた景色は。
私の肉体は全て衣服が取り払われていた。咥内から長く鋭い杭を打ちこまれ、その杭の先端は私の肉体を垂直に貫いて、見世物のように下肢部から赤い血を纏っててらてらと鉛色を光らせている。
嗚呼、今の状態ならよく視える。これは逆さ十字か。私を「神」の叛逆者として処刑する体で、見せしめとして殺しているのだ。
私の屍体を取り囲む騎士の中には、私のその姿を見て性処理をしている者もいる。不快だった。今は痛くない筈なのに、視界からもたらされる残忍さで激しい幻肢痛が私を襲う。
そして、貴族らしき男の命令で騎士たちは私の裸体に――何度も何度も何度も何度も槍を突き刺し風穴を開ける。もはや血飛沫すら出ない。死後硬直が始まっているであろう、既に死んでいると分かっている私の身体に、「罰だ」「制裁だ」と叫びながら、槍を突き刺し、……最期に油を撒いて火を放った。
神よ。私は、人間の生き様を美しいと思っております。健気に生き、貴方様を信じ、定められた人生を真っ直ぐに生きていく様子をこの世界で最も綺麗だと思うのです。時に、人間は醜悪な言動を取る事も、保身の為に他者を加虐する事もあるでしょう。それでも私は、信じたかったのです。
神よ。貴方様がいる限り、人間は必ず更生し世界は素晴らしき楽園となる。
……そう、信じていたかったのです。
でも、私は。私を今支配しているこの感情は――。
『……そうだ、それで良い。女、貴様は何も間違ってなど居ない。間違っているのは盲目的に神などと云う馬鹿げた奴等を利用し、信仰していると嘯き、己が欲望の為に他者を貶める腐り切った虫けら共だろう? こんな虫けらの飛んでいる穢れた世界など一度壊してしまえば良い。そして、神を射殺し、復讐を遂げ創り直すのだ』
我々の信念を「楚」とする新たな楽園を。
3章「Avarus(アウァールス)」
詩人は謳う。音程の取れなくなった熱に焦がされた喉で。
旧き歴史のある公都アウァールス。繁栄の為に行って来た全ての汚れた行為が、きっと「神」に暴かれたのでしょう。誰もが、そう思っていた。ですが、違う。これは、只の虐殺であり審判などでは無い。
見よ、愚かな人間よ。まるで「神」を冒涜するかのように、命を絶たれたシスターが産まれたままの姿で逆さ十字に吊るされ、聖なる赤き焔では無く、昏く甘美なモーブの花のような焔で焼かれている。
見よ、愚かな人間よ。神聖なものであるとされる「神の審判」がこのように、卑劣で残虐なものか。耳が焼かれていても脳裏に聴こえて来るだろう、高らかな嗤い声が。
此れは、神への復讐の序幕なのだ。我々の命は「神々の戦争」という大きな舞台の、地面に落ちている葉一枚に過ぎない。主役は、……。
『魔王ベリアルの復活だ、だろう? 使えない詩人め。何の為にわざわざ謳えるように生かしてやったと思っている? 吾輩の名を高らかに叫べ!! 命を乞うが良い!! 貴様等が信ずる「神」とやらは貴様等のような虫けらは救ってはくれんが、吾輩は気分次第では救ってやるかもしれんぞ。――なぁ、最も奴等を信仰している神官よ』
ベリアルは焼け爛れていく公都がよく見えるであろう高台で、一人の男性の首を絞め上げ上体を持ち上げると、その凄惨な状況がよく見えるよう律儀に身体の向きを変えてやる。男は苦しげな呻き声と共に恐怖のあまり歯をカチカチと鳴らしながら、蚊の鳴くような声で呟いた。
「……お、まえは、た、確かに、……殺させ、た筈――」
『嗚呼、この身体の事か? そうか、やはり人間という生物は小賢しくよく知恵が回る。首謀が貴様なら話は早いだろうな。――さて、人間。死にたくなければ吾輩を愉しませてみろ。神への信仰が本物だと、吾輩に証明する事が出来れば、命を生かしてやろうぞ』
ベリアルは男の首から手を離し、後退りしゃがみ込むその男の周囲を、まるでワルツでも踊るかのように楽し気に円を描き歩くと、ふと足を止める。
『まずはひとつ。貴様が信ずる神は、貴様に慈悲を与えるか?』
「……っひ、あ、あたえるに、決まっている!! 神は、我々、子羊を導き文明や慈悲を与え、人間を栄えさせてくれたのだッ!!」
『――ふむ、ではふたつ。貴様が犯した罪を神は赦すと思うか?』
「あ、あの女は異端の魔女であり、我等が信ずる神の敵だッ!! 故に罪などでは無い!! 私達は神の代行者として、異端者に裁きを与えただけだ!!」
男の必死な叫び声に、ベリアルは嘲笑しつつ――男の足を瞬時に切り落とした。鮮血が噴き出し、切り落とされた足が目前で紫紺の焔に焼かれていくのを男は半狂乱で眺め、畏怖に支配された感情のままその場から逃げようとする。
だが、逃げようとしても片足だからか上手く立てず、無様に転び、そして転んだ先には無数の鋭い槍が突き刺さっていた。その槍に串刺しにされている人間が、本物か、狂った男が視ている幻覚かは誰も分からないだろう。
『次に、みっつ。この状況でも神は貴様を救うか? もし死にたくないのなら、吾輩に懇願しても良いぞ? そうすれば救ってやっても良い』
「う、ぁッ……あぁ、たす、……たすけて、くれッ!!」
男は叫んだ。神のおわす空では無く、ベリアルに向かって、必死に泣きながら手を伸ばした。
ほら、分かっただろう? 所詮奴等「神」への人間の信仰など、この程度なのだ。
ベリアルは楽し気な表情から一変し、強い嫌悪感と憎悪を一瞬だけ“この顔”に滲ませる。そして、何の躊躇いも猶予も無く、男の首を刎ねその頭蓋を高台から蹴り落とした。
『……これ以上、壊すものも無いか。存外、殺戮や破壊という遊びもすぐに飽きてしまうものだな』
ベリアルはただ一言、二度と復興する事など無いであろう、神々との争いの歴史の中に葬り去られた公都アウァールスを見下ろした後、何の感慨も無く冷徹な表情で踵を返す。そして、根拠の無い不可思議な“不愉快さ”を感じて、暫く歩いてから足を止めた。
何千年待ち焦がれた事か。ようやく肉体を手にし、地上を蹂躙し、神の庭を破壊しているというのに……ほんの少しも乾きが満たされる事が無いのだ。少しでも愉悦を感じ、乾ききった喉を一滴でも濡らしてくれると思っていたが……何も、変わらない。
むしろ、逆だ。
ベリアルは、歪に嗤いながら自身の肉体を実感するように艶めかしく触れ尽くし、そしてぞくりとした表情で溜息を吐く。
嗚呼、乾きは満たされるどころか、その先を欲しがっている。
まだ彼女は満たされない。
全ては、始まったばかりなのだから。
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